宮崎県いいところ 歴史 比木神社 百済王伝説 [◆ 宮崎県 歴史]
『宮崎県いいところ 歴史 比木神社』
宮崎県の木城町で、周りが山に囲まれている町です。
比木神社は、江戸時代に高鍋藩の秋月歴代藩主より深く崇められ、
社殿改築、鳥居の建立等、寄進奉納されております。
『比木神社』
この神社には、朝鮮半島の古代国家の百済(くだら)が滅亡した時に、
船で王族が難を逃れるように日本を目指しました。
しかし、父の禎嘉(ていか)王の船が日向の金ヶ浜に、子息の福智王と
その母の船が高鍋町の蚊口浦に漂着しました。
父と母子が離ればなれになったのです。
父の禎嘉(ていか)王と三男が美郷町の神門神社へ、長男の福智王が比木神社に
母が高鍋町の大年神社に、それぞれ祀られました。
毎年に一回、父の禎嘉(ていか)王と長男の福智王が対面するために、
比木神社に祀られてる福智王が、父が祀られてる神門神社へ
訪れる型になっています。
『神門神社』
比木から神門まで約90kmの道程で、行き往復する
9泊10日にかけて行う行事です。
宮崎県いいところ 歴史 西都市 都於郡城址 伊東マンショ [◆ 宮崎県 歴史]
「西都市・都於郡城址」
西都市にある都於郡城址は、「伊東マンショの地」で有名になりました。
歴史は、建武4年・延元2年(1337年)伊東祐持によって
築かれたといわれています。
伊東氏は源頼朝の家臣工藤祐経が日向の地頭職を得て、
その子祐時が伊東氏を称したことに始まるのです。
祐持のとき日向に下って都於郡城を築いたが、その後京都で没し、祐持の子祐重が
貞和4年(1348年)に日向に下向、一族の守永祐氏に奪われていた
のちには、島津氏の所領となると鎌田政親が城主となり、天正15年(1587)に
豊臣秀吉による九州征伐の後は佐土原領となったそうです。
城主:伊東氏と鎌田政親。
「駐車場内」
都於郡小学校を目指して行けば良いのです。
小学校の北側に道標が出ており、それに従って行くと大きな駐車場があります。
宮崎県 歴史 西都原古墳群 このはな館 [◆ 宮崎県 歴史]
「西都原古墳群」
宮崎県の西都市に、日本最大級の古墳群があります。
それが『西都原古墳群』でして、南北4.2km、東西4.6kmという
広大なエリアで、320余基の古墳が小高い大地に集まった
国指定の特別史跡公園です。
県立西都原考古博物館、西都原古代生活体験館、古墳の内部を
復元した鬼の窟古墳などの施設があります。
西都原古墳群の公園内には、季節ごとに花々が咲きます。
「桜」、「菜の花」、「コスモス」など、咲き乱れるのです。
園内では、「桜まつり」に「古墳まつり」のイベントがあります。
景色が良くで、ドライブコースにいいですよ・・・。
西都原の詳細情報は、西都原ガイドセンター「このはな館」でおたずね下さい。
無料自転車を貸しなどもしています。(西都市観光協会)
【お問い合わせ先】
「このはな館」
住所:西都市大字三宅4941番地1
電話:0983-43-6230
宮崎県 歴史 古墳群 西都原古墳群 持田古墳群 宮崎 とばちゃん [◆ 宮崎県 歴史]
「宮崎県 歴史 古墳群」
宮崎県内では、いろんなところに古墳があります。
有名なのは、西都市にある「西都原古墳群」と高鍋町にある「持田古墳群」や
川南町にある「川南古墳群」など、宮崎市にある「生目古墳群」があります。
なかでも、日本最大級の規模の西都原古墳群でして、「男狭穂塚(おさほづか)」に
「女狭穂塚(めかほづか)」や「姫塚」と「鬼の窟古墳」があります。
高鍋町にある持田古墳群は、大陸から「邪馬台国」の卑弥呼へ贈られた物が
持田古墳群から出土したことで知られております。
その古墳群の周辺が畑に囲まれておるのですよ・・・。
西都原古墳群を中心に栄えており、日本の発祥の地なのです。
全面開通したばかりの東九州自動車道の西都市―新富町―高鍋町―川南町―
都農町間の建設したところ、遺跡が発見しておりました。
その遺跡を発掘した後、ようやく工事にとりかかったのです。
長い年月がかかったのでした・・・。