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宮崎県 高鍋町 歴史 日向国高鍋藩 江戸時代 [◆ 宮崎県 歴史]


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『宮崎県 高鍋町 歴史 高鍋藩』


【江戸時代】

江戸時代の高鍋は引き続き秋月氏が領有し、17世紀後半に城地名を高鍋としました。

廃藩置県まで高鍋は、秋月家3万石の城下町として栄えました。

江戸時代後期には、経世家・農学者佐藤信淵の著した「経済要録」で

「侯国財用富謄なるは芸州をもって第一とし、(中略)松代、高鍋

大村(中略)等これに次ぐ」と評価されて、全国でも

有数の豊かさを誇っていました。

江戸時代の高鍋からは、藩校「明倫堂」を創設し人材育成に努めた7代種茂公

米沢藩の財政を立て直すきっかけを作った上杉治憲(鷹山)公の兄弟をはじめ

多数の偉人を輩出しています。

「年 表」

1600年 関ヶ原の戦い 秋月種長本領安堵される

1604年 高鍋藩初代秋月種長 居城を櫛間から財部に復する

1609年 財部城に三層の櫓を建てる

1615年 このころ上方下方騒動おこる

1666年 上方下方騒動終わる

1673年 財部城普請はじまる

財部を高鍋と改める

1682年 木脇3,000石(現在の国富町の一部)を分知

1690年 山陰・坪谷村一揆。延岡藩から領民約1,400人が逃れてくる

1713年 廉の屋敷に稽古所を設ける

1761年 家中に倹約を達する

多子農民への扶助制度(現在の児童手当に相当)開始

1762年 休日の制、拾子の禁止を達する

1769年 上杉治憲 米沢藩主となる(後の上杉鷹山)

1778年 藩校明倫堂完成

1792年 高山彦九郎 高鍋へ来る


高鍋城下絵図

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藩政時代の高鍋の絵図。絵図の右側が北となり、右端の川は小丸川

左端の川は宮田川である。



宮崎県 歴史 小村寿太郎 飫肥藩 [◆ 宮崎県 歴史]


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『小村寿太郎』

小村 壽太郎(こむら じゅたろう、安政2年9月16日ー明治44年11月26日)

日本の外交官、政治家。外務大臣、貴族院議員などを務めた。

侯爵で、初代拓務次官の小村欣一は長男。


【経 歴】

1855年(安政2年)9月16日、日向国飫肥藩の下級藩士・小村寛平と梅子の

長男として生まれました。

明治3年(1870年)、貢進生として大学南校(東京大学の前身)に入学。

第1回文部省海外留学生に選ばれてハーバード大学へ留学し、法律を学んだのです。

帰国後は司法省に入省し、大審院判事を経て、1884年に外務省へ転出する。

陸奥宗光に認められて、1893年に清国代理公使を務めた。

日清戦争(1894年-1895年)。

乙未事変の後、三浦梧楼に代わって駐韓弁理公使を務め、在朝鮮ロシア総領事の

カール・ヴェーバーと小村・ウェーバー覚書を交わしたのです。

その後、外務次官、1898年に駐米・駐露公使を歴任して

1900年(明治33年)の義和団の乱では

講和会議全権として事後処理にあたった。

1901年(明治34年)、第1次桂内閣の外務大臣に就任。

1902年(明治35年)日英同盟を積極的に主張して締結に持ち込んで

その功により男爵を授けられる。

日露戦争後の1905年(明治38年)、ポーツマス会議日本全権として

ロシア側の全権ウィッテと交渉し、ポーツマス条約を調印。

ただし、その後にアメリカの鉄道王・ハリマンが満洲における

鉄道の共同経営を提案。

首相や元老の反対を押し切って拒否した件については評価が分かれる。

日露講和条約締結の功により伯爵に陞爵するのでありました。

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1901年(明治34年)、第1次桂内閣の外務大臣に就任。

1902年(明治35年)、日英同盟を積極的に主張して締結に持ち込む。

その功により男爵を授けられる。

日露戦争後の1905年(明治38年)、ポーツマス会議日本全権としてロシア側の

全権ウィッテと交渉し、ポーツマス条約を調印しました。


小村寿太郎は、日南市の偉人であります。



宮崎県 歴史 櫛間城 高鍋藩 [◆ 宮崎県 歴史]


『秋月家 櫛間城』

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建武2年(1336年)に野辺盛忠によって築かれたと云われており

野辺久盛の子盛忠が南朝方に属して

櫛間城を居城となったのです。

野辺氏は盛忠のあと、盛房、盛久、盛在、盛仁と続きますが

嘉吉元年(1441年)盛仁は、足利義満の子の大覚寺義有(義昭)を

匿った罪で罰せられ、野辺氏は滅亡しました。


野辺氏の後は伊作久逸が城主となりました。

久逸は飫肥城主の新納忠続と争いとなって伊東氏と結ぶなど

島津氏に反旗を翻しました。

その後に、降伏して伊作の地に戻り、櫛間は飫肥城主となった

島津忠廉の管理となったのです。

天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐の後、筑前国古処山城より

秋月種実・種長が高鍋三万石に転封となり高鍋城へ移った。


慶長4年(1597)には櫛間城へ移り居城としたが、慶長9(1604年)に

再び高鍋城を居城としたため廃城となりました。


以後、串間は高鍋藩の飛領地となったのです。




宮崎県 歴史 高鍋町 偉人 石井十次 [◆ 宮崎県 歴史]


「石井十次(いしい じゅうじ)」 (1865~1914)

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“孤児の父”の心に息づいていた明倫堂の精神で、大きな瞳のなかに

炎が映っていた。

燃えているのは医学の本だった。


石井十次は1865年、高鍋藩の下級藩士の家に生まれている。

明倫堂を前身とする高鍋島田学校に学び、三好退蔵の兄・田村義勝が

開いた漢字塾・晩翠学舎(ばんすいがくしゃ)で漢字を修めた。

その後、キリスト教の帰依。

1882年、医者をめざし岡山県甲種医学校に進む。


1887年、転機が訪れた。

十次は偶然、ある浮浪者の親子と知り合って、その男の子を引き取り

間もなく孤児教育会を設立した。

これが日本初の孤児施設・岡山孤児院となる。


「二足のわらじは履けない」。

決断した十次は、医師の道を断念。

医学書に火をつけ、孤児救済に生涯を捧げることを誓った。


「福祉」という言葉すらない時代。

地震、戦争、大凶作で親を失った子どもたちを十次は迎え入れつづけ

その数は1200名を超えた。


教育方針は独特だった。

食べたいだけ食べさせる「満腹主義」、孤児とふたりだけで話し合う「密室教育」。

いずれにしても試行錯誤のなかで創りあげた。


やがて十次は、寄付に頼らない独立自活の道を模索。

故郷・宮崎の茶臼原に土地を購入し、「鍬鎌主義」を揚げて

理想の“農村共同体”を実現する。


キリストの「博愛主義」、加えて「知行一致」と「人づくり」の精神。

“孤児の父”の心には、明倫堂の教えが脈々と息づいた。




宮崎県 歴史 高橋元種 経歴 [◆ 宮崎県 歴史]

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『高橋元種の経歴』

高橋元種は延岡藩の初代藩主で、秋月種実の次男として生まれました。

高橋鑑種の養子となり、そして日向国高鍋藩初代藩主の

秋月種長の実弟なのです。


【経 歴】

・天正15年(1587)8月5日、 豊臣秀吉が日向国に

大名を再配置し 元種には土持院300町など

1787町を宛行う。

・天正15年(1587)11月、 豊前国香春岳城(福岡県香春町)

より 元種が縣松尾城へ入る。

・文禄1年(1592)4月12日、 文禄の役に毛利吉成指揮下の 

第四軍(1万4000人)として慶尚道金海に上陸。

 同日、島津義弘(1万人)、元種(625人)以下

日向の諸領主(計2000名)が 漢城まで侵入。

・文禄3年(1594)、 石田三成、日向・大隅・薩摩を検地で 

高橋元種領、53000石へ。

・慶長3年(1598)、慶長の役に参戦。 

延岡兵600名など、日向国全体では兵200名

黒田長政指揮下の第三軍(三番備え、1万人)に

編成。

・慶長5年(1600)9月 関ヶ原の戦いに西軍に属すして

参戦するも、大垣城守備時に東軍に寝返り本領安堵となる。

・慶長6年(1601)、縣城(現在の延岡城)建設に着工して 

慶長8年(1603)秋に完成。 

更に縣城下町建設に着手しました。


元種は 城下町づくりに着手した「城下町縣(延岡)」の創設者であり

現在に至りました。


宮崎県 歴史 串間市 櫛間城 高鍋藩 [◆ 宮崎県 歴史]

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『宮崎県串間市 櫛間城』

建武2年(1336年)に野辺盛忠によって築かれたと云われています。

野辺久盛の子盛忠が南朝方に属して櫛間城を居城とした。

野辺氏は盛忠のあと、盛房、盛久、盛在、盛仁と続きますが

嘉吉元年(1441年)盛仁は足利義満の子の大覚寺義有(義昭)を

匿った罪で罰せられ、野辺氏は滅亡しました。

野辺氏の後は伊作久逸が城主となったのです。


久逸は飫肥城主の新納忠続と争いとなって伊東氏と結ぶなど

島津氏に反旗を翻しました。

その後に、降伏して伊作の地に戻り、櫛間は飫肥城主となった

島津忠廉の管理となったのです。

天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐の後、筑前国古処山城より

秋月種実・種長が高鍋三万石に転封となり高鍋城へ移った。

慶長4年(1597)には櫛間城へ移り居城としたが、慶長9(1604年)に

再び高鍋城を居城としたため廃城となりました。

それ以後、串間は高鍋藩の飛領地となったのです。



宮崎県 神社 川南町 甘漬神社 秋月氏 [◆ 宮崎県 歴史]

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『川南町 甘漬神社』

甘漬はご東遷の際御駐輦された所として顕彰されています。

場所は、川南町の北部にあります。

甘漬神社はその時、みずから大神を奉斎して群臣将兵と共に武運長久と

国土の平定をご祈請されたのが創祀の始めと言い伝えています。


当社の例祭毎に第一にこの古墳に御幣を奉上し、その後本社の祭典を

執り行うことを古例としてきました。

棟札によれば、甘漬三所権現として、天文六年(1537)に再興されており、

その後も、慶長二年(1597)卯月、寛永七年(1630)

十二月に、再興の記録があります。


「県史蹟調査報告」によると、歴代秋月氏の篤く崇敬した社で慶長二年丁酉卯月には、

秋月三左衛門種近公より神領七石五斗、営繕その他一切の寄進がありました。

その後も、社参、代参等度々あり、社殿の改築修理もなされました。

明治四年十一月村社となり、明治四十年七月、地元の愛宕神社を合祀しました。

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宮崎県 歴史 高鍋町 高鍋城址 [◆ 宮崎県 歴史]

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『高鍋城址の歴史』


元々は、財部城(たからべじょう)といわれたのです。

秋月氏が居城となってから高鍋城に改め、城の形から鶴が羽ばたく姿に

似ていることで舞鶴城ともいいます。

現在は舞鶴城跡となり、公園として整備されて「舞鶴公園」になっています。

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舞鶴公園 (640x480).jpg

平安時代後期に財部(現・高鍋)の士豪であった土持氏の所有となり、

以後およそ6百年に渡り、代々土持氏の居城でありました。


その後、城主は伊東氏、島津氏となり、1587年(天正15)には豊臣秀吉の

九州征伐後には、筑前国から秋月種実が日向国の串間へ移封になりました。

そして、串間から高鍋(旧・財部)へと移封されて秋月氏の領地となり、

高鍋城は秋月氏の持ち城になりました。


秋月種長が高鍋城の初代藩主となり、高鍋藩2万7千石で明治の廃藩に

至るまで続きました。

宮崎県 歴史 木城町 高城城址 [◆ 宮崎県 歴史]

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『木城町 高城城跡』


木城町の町役場のそばの小高い丘に、城山公園があります。

そこには、高城城址があるのです。

高城城址は小丸川とその支流である切原川に挟まれ、標高60mを数えます。

地形は舌状に細長く伸び台地であり、見晴らしには

大変優れたところにある山城です。

現在、城山公園として利用されている箇所が、東側の主郭と思われる

曲輪と考えられています。

ここでは名将山田新介が陣頭指揮をしていました。

又、この城には七箇所の竪堀が見られ敵が侵入するのを防いでいました。

その跡は今でも残っております。

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この城では、天正6年(1578)、天正15年(1587)の二度に渡り、

大合戦がありました。

当時の高城城主山田新介有信はわずかな兵力でよく防ぎ、

とうとう落城することはありませんでした。


宮崎県 歴史 日向市 美々津町 高鍋藩 商業港 [◆ 宮崎県 歴史]

『宮崎県 歴史 日向市美々津町 高鍋藩』

日向市美々津町は、日向市に合併する前は「児湯郡」でした。

耳川河口の美々津港は、江戸時代は高鍋藩の上方交易港、明治・大正時代は

入郷地帯を後背圏とする物資の移出入港となり、

美々津はその港町として栄えた。

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藩の参勤交代として使われていて、美々津から大坂(現・大阪府)まで船で渡り、

そこから江戸まで行ったそうでした。

藩の商業港・貿易港として栄えていて、廻船問屋を中心に城下町があります。

今でも、城下町がきれいに残っているのです。

国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されました。

耳川の河口の近くに、「美々津港」に「立磐神社」、「海軍発祥の地」の石碑があります。

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             『立磐神社』

立磐神社には、「神武天皇御腰懸磐」があり、神武天皇が出航の際に

この岩に腰掛け指揮したとされ、社名の「立磐」もこれに由来する。

神武天皇と航海神の住吉三神を祭神とする。

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