SSブログ

宮崎県 高鍋町 歴史 日向国高鍋藩 [◆ 高鍋町]

takanabe01.jpg

『奈良時代~戦国時代』

奈良時代には城が築かれ、戦国時代までに土持氏(およそ600年)

伊東氏(およそ120年)、島津氏(10年)と支配者が代わっていき

豊臣秀吉の九州征伐後には、高鍋(当時の地名は財部)は

筑前国から移された秋月氏の領地となりました。

また、8世紀中ごろ朝鮮半島より百済王の子孫が流れ着いたという伝説が

木城町・美郷町南郷区とともに語り継がれたのでした。


756年 百済福智王、蚊口浦に上陸(比木神社縁起)

854年 飫肥太郎秀綱 財部を贈るという(延陵世鑑)

1372年 田部直綱が財部城主で財部大明神を崇敬(寺社帳)

1457年 土持氏、伊東祐堯に降る(日向記)

1577年 財部の島津氏支配始まる(薩摩旧記)

1587年 島津義久 羽柴秀長に敗れる(日向国史)

秋月種長 筑前より日向財部に転封

1599年 庄内の乱に出兵



高城川合戦布陣図

T201212052313400i.jpg

1578年、薩摩の島津義弘と豊後の大友義鎮(宗麟)が木城町の高城川(小丸川上流)で

合戦を行ったときの布陣図。

この合戦に始まる一連の戦は、現在「耳川の合戦」と呼ばれています。


豊臣秀吉の朱印状

T201212052314060i.jpg

秀吉朱印状

1587年7月3日、豊臣秀吉より秋月三郎種長(初代高鍋藩主)にあたえられた

書状「日向国高鍋城をあてがうが知行方目録は中納言(羽柴秀長)より

受けとれ」としるしてある。

江戸時代になり、この書状の記述に基づき城地名を

高鍋と改めたのでした。




nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。