宮崎県いいところ 歴史 川南町 国指定史跡 宗麟原供養塔 [◆ 宮崎県いいところ]
「川南町 国指定史跡 宗麟原供養塔」
天正6(1578)年11月12日に、鹿児島(薩摩)の島津氏と
大分(豊後)の大友氏との間で繰り広げられました。
九州争覇戦の木城町にある高城の合戦の戦没者を供養するため、高城城主の島津軍の
武将・山田新介有信が天正13年に建立したものである。
供養塔の高さ3.5m、1辺24mの供養塚の一部削って建てられていますが、
元々は供養塚の南側に立っていたと考えられている。
平成15年の供養塔の周辺の発掘調査では、供養塚の周りに
24m四方の板で作った塀の痕が見つかりました。
なぜ供養塔の位置が変わったのかということだが、これは明治時代初期の
廃仏毀釈で供養塔が東側の地蔵谷という谷に捨てられました。
大正時代頃に谷底から持って上がってきて現在の位置に据え直したのです。
毎年11月12日には「宗麟原供養塔供養祭」が行われます。
天正6(1578)年11月12日に、鹿児島(薩摩)の島津氏と
大分(豊後)の大友氏との間で繰り広げられました。
九州争覇戦の木城町にある高城の合戦の戦没者を供養するため、高城城主の島津軍の
武将・山田新介有信が天正13年に建立したものである。
供養塔の高さ3.5m、1辺24mの供養塚の一部削って建てられていますが、
元々は供養塚の南側に立っていたと考えられている。
平成15年の供養塔の周辺の発掘調査では、供養塚の周りに
24m四方の板で作った塀の痕が見つかりました。
なぜ供養塔の位置が変わったのかということだが、これは明治時代初期の
廃仏毀釈で供養塔が東側の地蔵谷という谷に捨てられました。
大正時代頃に谷底から持って上がってきて現在の位置に据え直したのです。
毎年11月12日には「宗麟原供養塔供養祭」が行われます。
2014-05-13 18:30
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