宮崎県 歴史 藩校 高鍋藩 明倫堂 [◆ 宮崎県 歴史]
『宮崎県 歴史 藩校 高鍋藩 明倫堂 』
高鍋藩は、日向国に存在した藩なのです。
藩領は、現在の宮崎県児湯郡の東部(高鍋町、川南町、木城町、都農町、日向市の美々津)と
串間市、宮崎市(瓜生野・倉岡の一部)、国富町(木脇)でした。
藩庁は高鍋城です。
その高鍋藩の藩校は明倫堂で、高鍋藩の第7代藩主の秋月種茂が設立しました。
『秋月種茂・銅像』
【明倫堂について】
7代藩主・秋月種茂が儒官・千手興欽の進言に基づき
安永7年2月24日(1778年)に設立した。
その明倫堂は、藩士のみならず農民等の一般庶民にも入学させたのを
最大の特徴なのです。
5代藩主・秋月種弘の時に学問・武芸の稽古所があった高鍋城三の丸
(現在は宮崎県立高鍋農業高等学校の一部)に位置し、従来からの
武芸稽古所と併設して、藩士の子弟に文武を兼学させたのでした。
「高鍋城三の丸・宮崎県立高鍋農業高等学校の一部」
小学と大学に分れ、それぞれを行習斎、著察斎と呼んでいました。
行習斎には8~9歳で入学し、孝経、大学、論語などの素読や、孝経
小学内外篇の講義、礼式、書道、数学を学んだのでした。
1869年(明治2年)には国学科が設けられ、玉鉾百首や神代正語
万葉集などが教えられた。
1873年(明治6年)に廃止され、その後は高鍋島田学校を経て1887年には
現在の宮崎県児湯郡高鍋町立高鍋東小学校となったのです。
明倫堂の書庫は土蔵造で、現在は高鍋町立高鍋図書館構内に
蔵書とともに改築されている。
なお、明倫堂に関連して「高鍋で学者ぶるな」という諺が日向国内にあったのでした。
2017-05-07 17:39
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