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宮崎県 歴史 高鍋町 偉人 石井十次 [◆ 宮崎県 歴史]


「石井十次(いしい じゅうじ)」 (1865~1914)

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“孤児の父”の心に息づいていた明倫堂の精神で、大きな瞳のなかに

炎が映っていた。

燃えているのは医学の本だった。


石井十次は1865年、高鍋藩の下級藩士の家に生まれている。

明倫堂を前身とする高鍋島田学校に学び、三好退蔵の兄・田村義勝が

開いた漢字塾・晩翠学舎(ばんすいがくしゃ)で漢字を修めた。

その後、キリスト教の帰依。

1882年、医者をめざし岡山県甲種医学校に進む。


1887年、転機が訪れた。

十次は偶然、ある浮浪者の親子と知り合って、その男の子を引き取り

間もなく孤児教育会を設立した。

これが日本初の孤児施設・岡山孤児院となる。


「二足のわらじは履けない」。

決断した十次は、医師の道を断念。

医学書に火をつけ、孤児救済に生涯を捧げることを誓った。


「福祉」という言葉すらない時代。

地震、戦争、大凶作で親を失った子どもたちを十次は迎え入れつづけ

その数は1200名を超えた。


教育方針は独特だった。

食べたいだけ食べさせる「満腹主義」、孤児とふたりだけで話し合う「密室教育」。

いずれにしても試行錯誤のなかで創りあげた。


やがて十次は、寄付に頼らない独立自活の道を模索。

故郷・宮崎の茶臼原に土地を購入し、「鍬鎌主義」を揚げて

理想の“農村共同体”を実現する。


キリストの「博愛主義」、加えて「知行一致」と「人づくり」の精神。

“孤児の父”の心には、明倫堂の教えが脈々と息づいた。




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