宮崎県 偉人 高鍋藩 秋月種茂 [◆ 宮崎県 偉人]
『宮崎県 偉人 高鍋藩 秋月種茂 』
宮崎県高鍋町は高鍋藩でして、第7藩主・秋月種茂は
江戸時代中期~後期の大名なのです。
寛保3年11月30生まれて、秋月種美の長男でして上杉鷹山の兄であります。
宝暦10年父の跡をつぎ、日向(宮崎県)高鍋藩主秋月家7代となる。
藩の法治体制をととのえ、社倉の設置、多子家族の救済、藩校明倫堂の創設などを
おこない、藩の最盛期をもたらしました。
文政2年11月6日死去、77歳。
【藩校・明倫堂の設立】
日向国高鍋藩の7代藩主・秋月種茂が儒官・千手興欽の進言に基づき
安永7年2月24日(1778年)に設立した。
藩士のみならず農民等の一般庶民にも入学させたのを最大の特徴です。
5代藩主・秋月種弘の時に学問・武芸の稽古所があった高鍋城三の丸
(現在は宮崎県立高鍋農業高等学校の一部)に位置し
従来からの武芸稽古所と併設して藩士の子弟に
文武を兼学させました。
宮崎県 偉人 小村寿太郎 [◆ 宮崎県 偉人]
『宮崎県 偉人 小村寿太郎 』
小村 壽太郎(こむら じゅたろう、安政2年9月16日ー明治44年11月26日)
日本の外交官、政治家。外務大臣、貴族院議員などを務めた。
侯爵で、初代拓務次官の小村欣一は長男。
【経 歴】
1855年(安政2年)9月16日、日向国飫肥藩の下級藩士・小村寛平と
梅子の長男として生まれたのです。
明治3年(1870年)、貢進生として大学南校(東京大学の前身)に入学して
第1回文部省海外留学生に選ばれてハーバード大学へ留学し
法律を学んだのです。
帰国後は司法省に入省し、大審院判事を経て、1884年に外務省へ転出する。
陸奥宗光に認められて、1893年に清国代理公使を務めた。
日清戦争(1894年-1895年)。
乙未事変の後、三浦梧楼に代わって駐韓弁理公使を務め、在朝鮮ロシア総領事の
カール・ヴェーバーと小村・ウェーバー覚書を交わしたのです。
その後、外務次官、1898年に駐米・駐露公使を歴任して、1900年(明治33年)の
義和団の乱では講和会議全権として事後処理にあたりました。
1901年(明治34年)、第1次桂内閣の外務大臣に就任。
1902年(明治35年)日英同盟を積極的に主張して締結に持ち込んで
その功により男爵を授けられる。
日露戦争後の1905年(明治38年)、ポーツマス会議日本全権として
ロシア側の全権ウィッテと交渉し、ポーツマス条約を調印。
ただし、その後にアメリカの鉄道王・ハリマンが満洲における
鉄道の共同経営を提案。
首相や元老の反対を押し切って拒否した件については評価が分かれる。
日露講和条約締結の功により伯爵に陞爵するのでありました。
1901年(明治34年)、第1次桂内閣の外務大臣に就任。
1902年(明治35年)、日英同盟を積極的に主張して締結に持ち込む。
その功により男爵を授けられる。
日露戦争後の1905年(明治38年)、ポーツマス会議日本全権としてロシア側の
全権ウィッテと交渉し、ポーツマス条約を調印したのでした。
宮崎県 偉人 高木兼寛 ビタミンの父 [◆ 宮崎県 偉人]

『ビタミンの父 高木兼寛』
脚気の治療法を研究した“ビタミンの父”
高木兼寛は、「ビタミンの父」と呼ばれています。
昔から国民病とも呼ばれていた脚気は、細菌が原因の伝染病だと
考えられていました。
しかし高木兼寛は、実際に病人を診て、その置かれた環境を調べることによって
脚気が栄養不足によって引き起こされると考えて、軍艦の乗組員の
食事を改善する実験を行います。
ところが、イギリスで臨床医学を学んだ兼寛に対して、東京大学や
陸軍を中心とする日本の医学界の主流は
研究至上主義のドイツ医学でした。
彼らは兼寛の栄養説を真っ向から否定します。
後に兼寛の研究はビタミンの発見につながり、脚気はビタミンBの欠乏で
発症することが証明されます。
このことから、高木兼寛は「ビタミンの父」と呼ばれるようになるのです。

「英国留学中の高木兼寛」
【 医学だけじゃない、多方面に才能発揮の“マルチチャネラー” 】
そして、医学だけではなく語学はもちろんのこと、軍人(海軍軍医総監)
経済人(帝国生命保険会社創設)、経営者(病院や医学校の経営)
教育者(成医会講習所など)、政治家(貴族院議員など)
開拓者(北海道夕張郡開拓事業)、芸術家(書跡の達人)
宗教家などさまざまな顔を持つ、現代で言うところの
マルチ人間だったのです。

宮崎県 偉人 高鍋町 秋月種樹 萬歳亭 [◆ 宮崎県 偉人]

『高鍋町 偉人 秋月種樹』
“近代教育制度の生みの親”
秋月種樹 (あきづき たねたつ) は、秋月家第11代当主です。
【経 歴】
9代高鍋藩主・秋月種任の三男として生まれ、安井息軒
塩谷宕陰らに師事する。
若年より英明で知られ、小笠原明山、本多静山と並んで
学問界の三公子と称された。
文久2年(1862年)11月14日、部屋住みの身でありながら
幕府学問所奉行に登用される。
文久3年(1863年)6月26日、兄種殷の養子となる。
同年9月28日、若年寄格との兼任を命じられました。
秋月家は2万7000石の外様大名であり、異例の抜擢であった。
元治元年(1864年)5月28日、学問所奉行を解任されて
将軍徳川家茂の侍読に任じられた。
慶応3年(1867年)6月21日、若年寄に任ぜられるものの
12月25日に辞任しました。
明治2年には大学大監を命じられ、近代的な教育制度を作りあげた。
公議所(明治最初期の議事機関)を設ける建議を行い
その議長に任命されたのです。
明治37年(1904年)10月、病のため没する。享年71。
従二位勲二等に叙せられる。

【萬歳亭はなれ】
高鍋町の舞鶴公園内にある「萬歳亭はなれ」は
秋月家第11代秋月種樹公の住宅でして
庭には水琴窟があります。
昭和17年には本家を新築、別棟をそのまま残して
屋根を瓦葺にして種英公(種樹公の次男)が
書斎として愛用しました。
■住所:宮崎県児湯郡高鍋町大字南高鍋6937-2
■TEL:0983(23)1322
■開館時間:午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
■休館日:毎週月曜日(祝日の場合は翌日)
祝日の翌日 年末年始(12/28~1/4)
■入館料:無料
宮崎県 偉人 後藤勇吉 生涯 [◆ 宮崎県 偉人]

『宮崎県 偉人 後藤勇吉』
後藤勇吉は、宮崎県延岡市出身で、日本の航空黎明期の民間パイロット。
一等操縦士・一等飛行士免許取得、航空機による旅客輸送
日本一周飛行などにおいて日本初を成し遂げたのです。
のちに、太平洋横断無着陸飛行計画の訓練中に墜落死しました。
【生 涯】
1896年(明治29年)、宮崎県延岡市南町で裕福な商家の四男に生まれました。
幼少期より機械に関心を持ち、宮崎県立延岡中学校(現:宮崎県立延岡高等学校)に
入るころには蒸気機関つきの精米機や、水上自転車を製作した。
航空機に関心を持つようになったのもこの頃です。
1914年(大正3年)、延岡中学校卒業後に上京、三井物産の
自動車部門(ヤナセの前身)で無給の工員として働くが
飛行士白戸栄之助に出会い、その助手となる。
1916年(大正5年)、複葉水上飛行機・白戸式「巌号」とともに
延岡市に帰り、東臼杵郡門川町の海岸において
独力で飛行訓練を行い、試行錯誤の末に
直線飛行に成功したのでした。
後藤勇吉は、日本で最初に空を飛んだ野菜を運んだのは
宮崎県の特産物の日向かぼちゃなのです。
これが生鮮農産物空輸のはじまりです。

新鮮な野菜をいかに早く消費地に届けるかは、今日の課題でもあります。
70年前の昭和初期には、日豊線を利用して宮崎から北九州や大阪への
カボチャやキュウリの輸送が始まっていました。
しかし、1927(昭和2)年5月、宮崎県と宮崎市は販路の拡大を図るため
大阪中之島中央公会堂に阪神地方の関係者を招待し
郷土産品を使った料理の大試食会を
催すことになりました。
その宣伝効果を狙って野菜の空輸が発案され、当時名の知れていた
勇吉への期待が高まったのでした。