宮崎県 神社 比木神社 百済王伝説 [◆ 宮崎県 神社]
『宮崎県 神社 木城町 比木神社 』
宮崎県の木城町で、周りが山に囲まれている町です。
比木神社は、江戸時代に高鍋藩の秋月歴代藩主より深く崇められ、
社殿改築、鳥居の建立等、寄進奉納されております。
この神社には、朝鮮半島の古代国家の百済(くだら)が滅亡した時に
船で王族が難を逃れるように日本を目指しました。
しかし、父の禎嘉(ていか)王の船が日向の金ヶ浜に
子息の福智王とその母の船が高鍋町の
蚊口浦に漂着しました。
父と母子が離ればなれになったのです。
【比木神社】
父の禎嘉(ていか)王と三男が美郷町の神門神社へ、長男の福智王が
比木神社に、母が高鍋町の大年神社に
それぞれ祀られました。
毎年に一回、父の禎嘉(ていか)王と長男の福智王が対面するために
比木神社に祀られてる福智王が、父が祀られてる神門神社へ
訪れる型になっています。
宮崎県 神社 日向国一之宮都農神社 [◆ 宮崎県 神社]
『宮崎県 神社 日向国一之宮都農神社 』
宮崎平野北端に都農町にある標高1405mの尾鈴山があります。
その尾鈴山の東に広がる裾野の日向灘に接した都農町に、日向国の
一の宮である「都農神社」が鎮座されております。
1100年以上の歴史があると言われ古くから崇敬されてきた宮崎の「一之宮」。
ご東遷のため日向を発つ神武天皇がこの地で武運長久と
国土の平定を祈願したと言い伝えられるのです。
境内は杉や楠の大樹が茂る憩いのパワースポット。
※8月1・2日:夏大祭、12月4・5日:冬祭で、夏大祭は町をあげての
一大イベントとなっております。
場所では「道の駅 つの」のそばにあり、国道10号線沿いです。
「都農神社」の境内は広大で、周囲は一の宮公園となっており
深い杉の森に包まれています。
とても清清しい空気に満ち溢れているのです。
「都農神社」の社殿は、大友氏と島津氏との争いにより焼失して、高鍋藩の藩主
秋月氏によって再建されました。
今の社殿は、平成19年に新しく建て替えられたのです。
本殿は一間社流造や拝殿は入母屋造の立派な社殿が建てられています。
宮崎県 神社 鵜戸神社 高鍋町 [◆ 宮崎県 神社]
『高鍋町 鵜戸神社』
鵜戸は神武天皇ご東遷の際御駐輦された所として顕彰されてました。
鵜戸神社の創建は年代が詳かでないが、古来鵜葺草葺不合尊御上陸の旧地に
社殿を建設したと伝称しました。
境内本殿の西側にある高さ三尺、縦横九尺五寸の小丘は
尊御上陸の旧址と伝えられています。
当社は景行天皇熊襲征伐の際、海陸安全、全戦勝祈願の為、天皇十二月十月行幸
あらせらると伝えるも拠るべき、史料なく、確証し得ざるを遺憾とす。
古来海上鎮護の神とせられ、社伝旧記には其の鎮座地を
日州、高鍋領内河口村と記していたのです。
昭和二十六年十一月、現在の本殿、幣殿、拝殿が再建されたました。
【神社情報】
■住 所:児湯郡高鍋町大字蚊口浦1-1
■電 話:(0983)22-2700
■御祭神:鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
穂々出見命(ほほでみのみこと)
須佐之男命(すさのおのみこと)
邇々杵命(ににぎのみこと)
大物主大神(おおものぬしのおおかみ)
■社 殿:本殿(神明造)1坪 拝殿(入母屋造)10坪
■アクセス:JR高鍋駅より徒歩で約5分
宮崎県 神社 川南町 甘漬神社 高鍋藩 [◆ 宮崎県 神社]
『宮崎県 川南町 甘漬神社』
甘漬はご東遷の際御駐輦された所として顕彰されています。
場所は、川南町の北部にあります。
甘漬神社はその時、みずから大神を奉斎して群臣将兵と共に
武運長久と国土の平定をご祈請されたのが
創祀の始めと言い伝えています。
当社の例祭毎に第一にこの古墳に御幣を奉上し、その後本社の
祭典を執り行うことを古例としてきました。
棟札によれば、甘漬三所権現として、天文六年(1537)に再興されており
その後も、慶長二年(1597)卯月、寛永七年(1630)
十二月に、再興の記録があります。
「県史蹟調査報告」によると、歴代秋月氏の篤く崇敬した社で
慶長二年丁酉卯月には、秋月三左衛門種近公より神領七石五斗
営繕その他一切の寄進がありました。
その後も、社参、代参等度々あり、社殿の改築修理もなされました。
明治四年十一月村社となり、明治四十年七月
地元の愛宕神社を合祀しました。
宮崎県 初詣 宮崎神宮 神社 [◆ 宮崎県 神社]
宮崎県 日向市 大御神社 [◆ 宮崎県 神社]
『日向市 大御神社』
御神殿大御神社は、皇祖天照大御神を御祭神とする古社で、創建の年月は
詳らかではないが、当社に伝わります。
「神明記」その他の古文書によれば、往古・皇大御神・日向の国高千穂に
皇孫瓊々杵尊を天降し、給うた節、尊は当地を
御通過遊ばされたのです。
千畳敷の磐石にて、これより絶景の大海原を眺望され、皇祖天照大御神を奉祀して
平安を祈念されたと伝えられ、後世、此の御殿の霊石の在りし所に一宇を建て
皇大御神を勧請し村中の鎮守と崇敬し奉ると言う。
また、神武天皇御東遷の砌、大鯨を退治された御鉾を建てられたことから
鉾島が細島に転じたと伝えられている。
天皇はこの時、伊勢ヶ浜(港)に入られ、皇大御神を奉斎する御殿(現在の大御神社)に
武運長久と航海安全を御祈願されたと伝えられ、大御神社の西に横たわる櫛の山と
東に隆起する米の山(久米の山)は、神武天皇の先鋒の天櫛津大久米命の名に
因むものであると言う。
その後、当社は日知屋城主伊東氏ら歴代城主はもちろん、延岡城主
幕領代官等に尊崇されて、地方の民も「日向のお伊勢さま」と
呼んで崇敬し、且つ親しんできたのであります。
最近ことに、御神徳を慕って県内外の参拝者が激増している。
大御神社の社名は、天照皇大御神の大御をいただいて社名としたと
伝えられているが、本殿に残る天保・安政年間より大正5年までの
祈願木札には、天照皇大神宮と記されていたのでした。
御祭神 天照皇大御神 (アマテラススメオオミカミ)
国登録有形文化財(本殿・幣殿・拝殿)平成11年10月14日指定
今年は、大御神社に「ラクビーワールドカップ」の日本代表の選手たちが
夏に必勝祈願に越られたそうです。
祈願したおかげで、ワールドカップの対南アフリカ戦で勝利いたしました(^-^)
それがきっかけで、大御神社が有名になりますね
宮崎県 神社 串間市 御崎神社 [◆ 宮崎県 神社]
『串間市 御崎神社』
鎮座地は6kmあまり岬の南方に突出し、北は御崎馬の放牧で知られる
原野に連なり西南は大隅の佐多岬と相対し
眺望絶佳の地であります。
神社の周辺には、国の特別天然記念物の蘇鉄の自生林であります。
旧称を御崎三所大権現といい、「件史跡調査第六輯」によると
元暦元年(1184)土持信森がこの地に来て祠官となって
以来二十三代に及んで継承初め島津忠久に信森が
由緒を申達して以来しまして領主歴代神領を
寄進し尊崇篤かった古社という。
「高鍋藩神社調」によると、縁起は福島院、土肥御崎、三所大権現に
ついて「古事記」の日向の橘のくだりから
三祭神が生まれたことを述べています。
御崎三所権現の名を賜うのは、佐田御崎、火御崎、土肥御崎の三つで
三月三日のご託宣により、六月社殿を建て崇め奉ったという。
明治三十九年には、神饌幣帛料供進神社に指定されました。
【神社案内】
■住 所:宮崎県串間市大字大納58-丙
■創立た年月日:和銅元年(708)3月3日
■御祭神:底津綿津見命(そこつわたつみのみこと)
中津綿津見命(なかつわたつみのみこと)
上津綿津見命(うわつわたつみのみこと)
■駐車場:有り
宮崎県 神社 高鍋藩 都農町 都農神社 [◆ 宮崎県 神社]
『宮崎県都農町 都農神社』
高鍋町から北へ向かった先の宮崎平野北端に
標高1405mの尾鈴山があります。
その尾鈴山の東に広がる裾野の日向灘に接した都農町に
日向国の一の宮である「都農神社」(つのじんじゃ)が
鎮座されております。
この辺りには、その昔尾鈴山から山の神が白馬に乗って「都農神社」や
都農の浜に降りてこられたとき、馬の首の鈴が空に鳴り響いたので
「お鈴さま」とよんだという伝説が残っているのです。
「都農神社」の境内は広大で、周囲は一の宮公園となっており
深い杉の森に包まれています。
とても清清しい空気に満ち溢れているのです。
「都農神社」の社殿は、大友氏と島津氏との争いにより焼失して
高鍋藩の藩主秋月氏によって再建されて、今の社殿は
平成19年に新しく建て替えられたのです。
本殿は一間社流造や拝殿は入母屋造の立派な社殿が建てられています。
秋月氏が創建した社殿は、移築されて末社である
「熊野神社」の本殿となっています。
宮崎県 神社 高鍋藩 立磐神社 美々津町 [◆ 宮崎県 神社]
『日向市美々津町 立磐神社』
立磐神社はこの時航海の安全を祈念されており、この埠頭には
海上守護神である底筒男命、中筒男命、表筒男命の
三柱の大神を奉斎しました。
第十二代景行天皇の御代に創祀されたと伝えられました。
永禄の頃(1558~1570)より地頭の崇敬があり
祭礼神事行事も整っていて、殷盛となっていました。
しかし、天正六年(1578)に至り大友氏との
耳川の合戦の為戦火にかかり、宝物貴重なる
文献記録等烏有に帰した。
棟札によれば元和六年(1623)、寛文八年(1668)、
宝永二年(1705)、享保九年(1728)、
享和九年(1903)に再興されました。
高鍋藩秋月氏の崇敬も厚く、貞享三年の「高鍋藩寺社帳」によれば
神領七石五斗を有していたとあり、その後も神事ある毎に
寄進を受けていました。
さらに、境内には神武天皇御腰掛岩があり、今もご聖蹟として
崇拝しています。
場所は、美々津町にある耳川の河口沿いにあります。
近くには、高鍋藩だった頃の城下町がありますよ。
立磐神社はこの時航海の安全を祈念されており、この埠頭には
海上守護神である底筒男命、中筒男命、表筒男命の
三柱の大神を奉斎しました。
第十二代景行天皇の御代に創祀されたと伝えられました。
永禄の頃(1558~1570)より地頭の崇敬があり
祭礼神事行事も整っていて、殷盛となっていました。
しかし、天正六年(1578)に至り大友氏との
耳川の合戦の為戦火にかかり、宝物貴重なる
文献記録等烏有に帰した。
棟札によれば元和六年(1623)、寛文八年(1668)、
宝永二年(1705)、享保九年(1728)、
享和九年(1903)に再興されました。
高鍋藩秋月氏の崇敬も厚く、貞享三年の「高鍋藩寺社帳」によれば
神領七石五斗を有していたとあり、その後も神事ある毎に
寄進を受けていました。
さらに、境内には神武天皇御腰掛岩があり、今もご聖蹟として
崇拝しています。
場所は、美々津町にある耳川の河口沿いにあります。
近くには、高鍋藩だった頃の城下町がありますよ。