宮崎県 偉人 後藤勇吉 生涯 [◆ 宮崎県 偉人]
『宮崎県 偉人 後藤勇吉』
後藤勇吉は、宮崎県延岡市出身で、日本の航空黎明期の民間パイロット。
一等操縦士・一等飛行士免許取得、航空機による旅客輸送
日本一周飛行などにおいて日本初を成し遂げたのです。
のちに、太平洋横断無着陸飛行計画の訓練中に墜落死しました。
【生 涯】
1896年(明治29年)、宮崎県延岡市南町で裕福な商家の四男に生まれました。
幼少期より機械に関心を持ち、宮崎県立延岡中学校(現:宮崎県立延岡高等学校)に
入るころには蒸気機関つきの精米機や、水上自転車を製作した。
航空機に関心を持つようになったのもこの頃です。
1914年(大正3年)、延岡中学校卒業後に上京、三井物産の
自動車部門(ヤナセの前身)で無給の工員として働くが
飛行士白戸栄之助に出会い、その助手となる。
1916年(大正5年)、複葉水上飛行機・白戸式「巌号」とともに
延岡市に帰り、東臼杵郡門川町の海岸において
独力で飛行訓練を行い、試行錯誤の末に
直線飛行に成功したのでした。
後藤勇吉は、日本で最初に空を飛んだ野菜を運んだのは
宮崎県の特産物の日向かぼちゃなのです。
これが生鮮農産物空輸のはじまりです。
新鮮な野菜をいかに早く消費地に届けるかは、今日の課題でもあります。
70年前の昭和初期には、日豊線を利用して宮崎から北九州や大阪への
カボチャやキュウリの輸送が始まっていました。
しかし、1927(昭和2)年5月、宮崎県と宮崎市は販路の拡大を図るため
大阪中之島中央公会堂に阪神地方の関係者を招待し
郷土産品を使った料理の大試食会を
催すことになりました。
その宣伝効果を狙って野菜の空輸が発案され、当時名の知れていた
勇吉への期待が高まったのでした。
2016-03-10 18:14
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