宮崎県 歴史 延岡藩 [◆ 宮崎県 歴史]
『延岡藩 歴史』
宮崎県の北部に位置する延岡市は、「チキン南蛮」の発祥の地でもあり
特産の野菜ブランド「空飛ぶ新玉ねぎ」で有名です。
【延岡藩・歴史】
そんな延岡藩(のべおかはん)は、日向国北部と現在の宮崎市の北部を
領有した藩で、牧野氏以降明治維新までは豊後国等の
一部をも領有した。
また、有馬氏期までの延岡は縣(県)と称していたので
縣(県)藩(あがたはん)とも呼ばれる。
藩庁は縣城(延岡城)。
「延岡藩の領土(オレンジ色)」
当藩の始まりは、豊臣秀吉の九州征伐後の天正15年(1587年)に
豊前国香春(福岡県田川郡香春町)周辺の領主高橋元種が
延岡南部の松尾城5万石に封ぜられたことに始まる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて元種は、当初は西軍方であった。
しかし、九州南部の小領主である秋月種長・相良頼房らと密謀し東軍へと寝返った。
これにより江戸幕府より旧領を安堵され、県藩の成立をみた。慶長6年(1601年)
元種は県城(延岡城)を築城して松尾城より移り、以後明治維新まで
うこの城が藩政の中心となった。
慶長18年(1613年)、幕府の罪人水間勘兵衛を高千穂に匿ったとして改易処分となり
陸奥棚倉藩主・立花宗茂預かりとなりました。
領主高橋元種は、日向国高鍋藩から高橋氏に養子にきたそうです。
【歴代藩主】
高橋家 外様 5万石 (1587年 - 1613年)
元種(もとたね)〔従五位下、右近大夫〕
有馬家 外様 5万3千石→5万石 (1614年 - 1691年)
官位官職は歴代、従五位下・左衛門佐、日向守
直純(なおずみ)
康純(やすずみ)分知により5万石
清純(きよずみ)
三浦家 譜代 2万3千石 (1692年 - 1712年)
明敬(あきひろ)〔従五位下、壱岐守〕
牧野家 譜代 8万石 (1712年 - 1747年)
成央(なりなか)〔従五位下、備後守〕
貞通(さだみち)〔従四位下、備後守・侍従 京都所司代〕
内藤家 譜代 7万石 (1747年 - 1871年)
政樹(まさき)〔従五位下、備後守〕
政陽(まさあき)〔従五位下、能登守〕
政脩(まさのぶ)〔従五位下、備後守〕
政韶(まさつぐ)〔従五位下、能登守〕
政和(まさとも)〔従五位下、備後守〕
政順(まさより)〔従五位下、備後守〕
政義(まさよし)〔従五位下、能登守〕
政挙(まさたか)〔従五位下、備後守〕
2016-01-19 17:39
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