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宮崎県 歴史 櫛間城 高鍋藩 [◆ 宮崎県 歴史]


『秋月家 櫛間城』

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建武2年(1336年)に野辺盛忠によって築かれたと云われており

野辺久盛の子盛忠が南朝方に属して

櫛間城を居城となったのです。

野辺氏は盛忠のあと、盛房、盛久、盛在、盛仁と続きますが

嘉吉元年(1441年)盛仁は、足利義満の子の大覚寺義有(義昭)を

匿った罪で罰せられ、野辺氏は滅亡しました。


野辺氏の後は伊作久逸が城主となりました。

久逸は飫肥城主の新納忠続と争いとなって伊東氏と結ぶなど

島津氏に反旗を翻しました。

その後に、降伏して伊作の地に戻り、櫛間は飫肥城主となった

島津忠廉の管理となったのです。

天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐の後、筑前国古処山城より

秋月種実・種長が高鍋三万石に転封となり高鍋城へ移った。


慶長4年(1597)には櫛間城へ移り居城としたが、慶長9(1604年)に

再び高鍋城を居城としたため廃城となりました。


以後、串間は高鍋藩の飛領地となったのです。




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